「犬の耳」に出会う日々

けんげきで働く人

犬の耳…というよりも dog ear(ドッグイアー)と言った方が解りやすいのかもしれませんね。そうです…本を読みながら、気になる言葉や表現が出てきたときに、そのページの片隅を少し折り曲げておくのですが、それでできる三角形を欧米では昔からドッグイアーと呼んできたようです。

私は65才の時に宮崎に帰ってきて芸術劇場で働きはじめました。故郷・宮崎でなにがしかお役に立つ仕事をしながら残りの人生を・・・と決意したからです。仕事の他では、宮崎のゆっくりした時間の中で、ゴルフや焼酎で気の置けない方たちとの付き合いを楽しみながら早くも10年がたちましたが、もう一つ楽しんできたのが読書です。

大学を出てから40年あまり、仕事の上で学術書や調査記録、評論集や伝記などいわゆるノンフィクションを読むことが多くて。その反動のように私生活では実に多くの小説を読むようになりました。10年前に宮崎に移り住む時に、その中から500冊あまりの小説を持ってきました。一人暮らしのヒマな時間に、かつて読んだ小説を取り出して読むのですが、驚くのはどの小説も初めて読むような新鮮さを味わえることです。「犬の耳」が随所にある小説たち…

60代の半ばから始まった物忘れ、呆けが70才頃から急速に進み、そのせいでというかそのお陰で、どの小説の中身もぼやけています。歴史時代小説の中で好きだった山本周五郎、藤沢周平、葉室麟が並ぶ本棚から取り出して読む小説はなぜか、かすかにストーリーを憶えているのですが、一つ一つ場面の描写の凄さや美しさは初めて味わう感動を与えてくれます。困るのは、時おり出くわす「犬の耳」です。このページのどの表現を気に入ったのか、気になったのか・・・が皆目わからないことがしばしばです。

海外ミステリーも随分いろんな作家のものを読みました。宮崎にはその中から、探偵スペンサーシリーズのロバート・B・パーカーと刑事ハリー・ボッシュ・シリーズのマイクル・コナリーの本を持ってきました。いずれもハードボイルドで、あの探偵フィリップ・マーロウを生み出したレイモンド・チャンドラーの系譜に入る作家です。探偵や刑事の主人公が難事件を解きほぐし痛快な結末をもたらすこの小説たちですが、やはり随所に「犬の耳」がありその理由を思い出せないことが度々です。

日本の現代作家たちの本も随分読みましたが、宮崎に連れてきたのは奥田英朗、佐々木譲、東直己、黒川博行といった作家の本、それぞれ20冊~30冊です。今を生きる様々な人物の造形がそれぞれ独特ですし、特に推理ものはいずれも卓越したストーリー性と現代社会を透視する視点が秀逸な作家たちの小説です。この作家たちの「犬の耳」は久しぶりに読み返しても、思い当たる理由がわかるものが多いですね。

最後にもう一人、現代小説の吉田修一。この人の面白さは悪人たちの造形描写が冴え渡っている小説なのですが、一方で「横道世之介」という、どこにでもいそうな平凡で人の良い若者と周囲の善人たちとの交流を描いた小説もまた私のお気に入りです。最後にこの「横道世之介」から犬の耳にあたる描写をご披露します。

「ショウコが好きになるくらいだから、きっと立派な人だったんでしょうね」
「立派?ぜ~んぜん。笑っちゃうくらいその反対の人」
「そうなの?」
「ただね、ほんとうになんて言えばいいのかなぁ……。いろんなことに、『YES』って言ってるような人だった」
ハンドルを握ったままシルヴィがこちちらに目を向ける。
「……もちろん、そのせいでいっぱい失敗するんだけど、それでも『NO』じゃなくて、『YES』って言ってるような人……」

吉田修一「横道世之介」,毎日新聞社刊,2009年,p374

祥子さん、最近おばさんね、世之介が自分の息子でほんとによかったと思うことがあるの。実の母親がこんな風に言うのは少しおかしいかもしれないけれど、世之介に出会えたことが自分にとって一番の幸せではなかったかって。

吉田修一「横道世之介」,毎日新聞社刊,2009年,p422

よかったら「横道世之介」を手に取ってお読みいただくと嬉しいですね。

今年(2023年)5月に、このシリーズの完結編「永遠と横道世之介」が刊行されています。よろしかったらそちらも是非。 犬の耳に出会ったときに、数十年前に感じた感動をもう一度味わえる瞬間、それが後期高齢者になった私の至福の時間です。

文中画像の書籍のご紹介


もみ の木は残った」山本周五郎(新潮文庫)
五瓣 ごべん の椿」山本周五郎(新潮文庫)
「あんちゃん」山本周五郎(新潮文庫)
「小説 日本婦道記」山本周五郎(新潮文庫)
「三屋清左衛門残日録」藤沢周平(文春文庫)
「蝉しぐれ(上・下)」藤沢周平(文春文庫)
「隠し剣秋風抄」藤沢周平(文春文庫)
「暗殺の年輪」藤沢周平(文春文庫)
「風の軍師 黒田官兵衛」葉室麟(講談社文庫)
「蝶のゆくへ」葉室麟(集英社文庫)
乾山晩愁けんざんばんしゅう 」葉室麟(角川文庫)
蜩ノ記ひぐらしのき 」葉室麟(祥伝社文庫)
「春雷」葉室麟(祥伝社文庫)


「エコー・パーク(上・下)」マイクル・コナリー/訳:古沢嘉通(講談社文庫)
「ブラックボックス(上・下)」マイクル・コナリー/訳:古沢嘉通(講談社文庫)
「天使と罪の街(上・下)」マイクル・コナリー/訳:古沢嘉通(講談社文庫)
「昔日」ロバート・B・パーカー/訳:加賀山卓朗(早川書房)
「笑う未亡人」ロバート・B・パーカー/訳:菊池光(早川書房)
「ポットショットの銃弾」ロバート・B・パーカー/訳:菊池光(早川書房)


「喧嘩(すてごろ)」黒川博行(角川書店)
「果鋭(かえい)」黒川博行(幻冬舎)
「連鎖」黒川博行(中央公論新社)
「コメンテーター」奥田英朗(文藝春秋)
「我が家のヒミツ」奥田英朗(集英社)
「ナオミとカナコ」奥田英朗(幻冬舎)
「リバー」奥田英朗(集英社)
「駆けてきた少女」東直己(ハヤカワ文庫)
「探偵はBARにいる3」原作:東直己/脚本:古沢良太/ノヴェライズ:森晶麿(ハヤカワ文庫)
「旧友は春に帰る」東直己(ハヤカワ文庫)


「横道世之介」吉田修一(毎日新聞社)
「永遠と横道世之介(上・下)」吉田修一(毎日新聞出版)
「悪人」吉田修一(朝日新聞社)

この記事を書いた人

佐藤寿美(さとう・としみ)
(公財)宮崎県立芸術劇場理事長兼館長
1948(昭和23)年、延岡市生まれ。鹿児島県のラサール高校から東京外国語大学を経て、71年にNHKに入局。2013年までの40年余にわたり「新日本紀行」やNHK特集などテレビドキュメンタリー番組の制作に携わる。また、この間に特派員としてパリを拠点にヨーロッパで幅広く活躍し、宮崎放送局長時代には「地域の応援団」を目指し、新しい番組もスタートさせた。2014年1月から現職に就任。
(プロフィール画は当劇場スタッフ作)

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