パイプオルガン披露演奏会に寄せて
(1994年)
闇が世を支配していた時代、人は満天の星の動きに敏感であった。
静寂が世界を支配していた頃、人々は葦の折れ口に風がそよぐ音にも感動した。
それがオルガンの始まりと伝説は伝えている。
大きな音は出ないが素直で優しい音であったのであろうか?
オルガンが教会に入ってからでも優に1000年以上にもなる。
単純な一列音階のパイプと掌ほどもある大きな鍵盤の時代もあった。
音量を得るために何列かのパイプを用いることを覚え、それらのパイプ列を個々に呼出す音栓ができた。いくつかの小オルガンを融合一体化し、2段3段の手鍵盤、ペダル鍵盤も使われるようになった。大オルガンは複数のオルガンの融合体であり、それぞれの部分オルガンはそれで一つの音楽の宇宙を現出し、銀河の調和に似て複数の部分オルガンはオルガン音楽の大宇宙を作り出す。
オルガンのパイプすなわち笛は大部分が錫と鉛すなわち半田合金で作られている。やわらかいので寝かせておくとパイプが自重でつぶれてくる。
この合金がなぜ用いられたのかは謎である。銅、亜鉛などが使われることがあるが半田合金に勝るものは無いようである。工作が容易であることは理由の一つであろう。有名なローマの水道は石造りであるがその端末には鉛の管を使用していた。この鉛の水道管の製法はオルガンのパイプの製法と同じなのである。水道管職人がつれづれに笛を作ったのが今のオルガンのパイプのはじめかもしれない。仕事の中の遊びを想像するのも楽しい。
アクインクムの遺跡で発掘されたオルガンの祖先には青銅のパイプを使用していた。
正面のパイプの裏に大小様々なパイプが林立している。四角柱型の木管もある。全てのパイプが風に素直に鳴って初めて美しいオルガンになる。パイプそれぞれの個性を感じながら、それを生かす整音作業がオルガン製作者の最大の役目と思っている。パイプと意見が合うこともある。一本のパイプをなだめすかすのに大変な忍耐を要する場合もある。
パイプを鳴らす風はオルガン製作者にとって常に課題である。声楽家が呼吸法の研究に一生を費やすことに似ている。オルガン製作者は風の質量と弾性を自分の感覚とし、吹子の大きさ、送風管の長さと太さ、風の導き方などを決める。風の温度上昇、細かい風の揺れ、送風騒音は電動送風に起因する現代の問題である。
鍵盤とそれにつながるメカニズムは、演奏とパイプの懸け橋。音を良く聞く奏者は鍵盤とメカニズムを通して弁の動きまで指で感じながら風でパイプを操っている。相入れない要素ばかりの中で大オルガンに敏感さ軽快さを求めることは簡単なことではない。
対称に見えるオルガンであるが、良く観察すると左右のパイプの長さは異なっている。音階という自然の調和律が醸し出すパイプの長さをデザインに使っているからである。伝統が示唆を与えてくれるとはいえ、オルガンのデザインはその構造、音響的配慮の結果である。大ホールに音を行き渡らせるための工夫、温度差による調律のくるいを少なくするための工夫、など過去にはなかった課題も解決しなければならない。
試作でありながら完成品を作るオルガン製作の宿命。過去の楽器に学び、熟慮の上実践に移す。
しかしその逆を行ったならば結果はどうなのか?明白なことも有れば試すことすらかなわないことも多い。ある程度の理由づけが可能な現代、理論に助けられる面は多い。半面それがゆえになおさら天が人に与えた感覚のすばらしさ、その繊細さ多様、多彩さには驚異を覚える。SOLI DEO GLORIA!
パイプオルガン紹介
20世紀後半は、ヨーロッパの教会で育ったオルガンを日本の音楽ホールに移入する壮大な実験場となった。日本ではオルガン音楽の主会場が宗教から離れ、ホールに移っている。教会は西洋音楽のゆりかご、オルガンは現代に至るまで西洋音楽史に常に顔を出す。過去何百年に亘った教会でのオルガン製作法をそのまま音楽ホールに適応することはできない。オルガンの故郷、ヨーロッパでホールのオルガンの中に、その品質で著名なものは一つもないという事実を知れば十分であろう。古楽器としてのオルガンをこのオーケストラ空間に持ち込むことは正しい選択ではなかろう。ここでは現代に至るまで中断なく発達、変遷し現代にも生き続ける楽器としての『オルガン』を意識して計画した。
オルガンは教会では建物の背面に静かに建っていた。ホールでオルガンは初めて主役の顔になり、文字通りライトを浴びることとなった。軽い風のささやきは教会の豊富な残響に支えられ、天から降り注ぎ、建物の隅々まで満たす。ホールのオルガンはえてして『遠い、あそこで鳴っているオルガン』になってしまう。一本一本の笛すなわちパイプがむりなく自然な発音をし、かつホールと共に鳴り、ホールの空間を支え満たさなければならない。パイプは『優しい風』を好む。同時に、大きなホールは『頼り甲斐のある風』をオルガンの肺すなわち吹子に求めている。声楽家が呼吸法を研究し発声法を研究することと同じである。大きなオルガンであっても鍵盤は敏感で軽快でなければならない。おたがいに関連し、また相反する音響的、技術的、デザイン的諸問題がせめぎあっている。熟慮、実験を経て解決できる場合もある。時には妥協、時には決断を経て世界に一つしかない楽器が生まれる。
オルガンの原則を踏み外すことなく、伝統的な要素を生かし、かつその中に宮崎にヒントを得た現代の私のデザインを表現できたと思っている。オルガンはその歴史のなかで多くの楽器を摸放してきた。日本のオルガンのひとつで邦楽器を模倣してみることも許されるであろう。『篠笛』と名付けた音栓を試みた。素朴な竹の笛による千変万化の息の表現をオルガンの吹子と鍵盤とパイプ(笛)で摸放しきれるとは思ってはいない。このオルガンや『篠笛』の音栓に創作意欲を刺激される作曲家があらわれることに期待したい。
宮崎のオルガン製作にあたって
この規模のオルガンを任されることはまれである。オルガンは時代の反映と言われる、この時代の建築にこの時代の趣味、感覚、技術、工作法を集めた工芸の集成。工業化された商品の溢れる世にあってそれと一線を隔すオルガン製作の世界。20世紀後半は国内でのオルガン製作の歴史そのものである。日本のオルガン製作史の一こまとなるオルガン、我々の時代の反映として残るオルガン、『記念碑的オルガン』としたかった。
興行としての演奏会だけでなく、演奏家、作曲家のいたたまれない表現意欲の発露としてこのオルガンが使われるようになってほしい。我々の存在しない将来にでも宮崎県の音楽文化になんらかの実りがあることを期待している。半世紀の時はこのオルガンの成果を見守る時間として、決して長すぎるとは思わない。
このオルガンは宮崎県のものになる。と同時に、私のオルガンと言われ続けることも事実である。そのことは恐ろしいほどにきびしい、と同時に喜びでもある。この喜びを享受することを許される職業も今日ではまれである。この機会を与えていただいたことは感謝とともに私の記憶から消え去ることはないであろう。