東日本大震災 15年

館長のつぶやき

2011年3月11日。前職時、40年間の報道などの日々で、最大の出来事である。

私は、災害報道の中核である報道局社会部で取材指揮にあたると共に、ニュースを出すセクションとの連携を続けていた。大地震の発生後間もなく飛び込んできた、東北各地に襲いかかる津波の映像。これが前例のない大災害であることを、一瞬で突きつけた。その後、泊まり込みで取材や放送対応を続ける中で、頭の片隅では常にある想いを感じていた。

 

遡ること7年前、2004年12月インドネシアのスマトラ島沖で発生した大地震、そして東南アジアやインド洋沿岸を襲ったインド洋大津波。20万人以上が犠牲となったこの大津波について、発生直後、その後も節目ごとに、ニュースや番組で取り上げてきた。しかし「さすがにあれほどの津波は日本には来るまい」という意識が、どこかにあったのではないか。「大津波は日本にも来る」という危機感を共有し、警鐘を鳴らすことが、不十分だったのではないか。

 

そしてもう一つの想い。東日本大震災では、高い津波が沿岸に押し寄せたのは、発生からおよそ30分後だった。中には1時間後のところもあった。「もっと強く避難を呼びかけておけば」「もっと何かできたのではないか」

地震の被害や原発事故、避難などの報道を続ける一方で、東日本大震災での報道の検証も急いで進めた。「もっと何かできた」という想いはみんな同じだった。

その教訓を踏まえた対応の一つが、大津波に対して「早く逃げること」などと、命令口調で強く呼びかけることである。避難の呼びかけの大切さは、テレビ各局との意見交換や検討を通じて、メディア共通の教訓となった。この強い呼びかけは、おととし2024年の能登半島地震の際に放送され、中には驚かれた方もいると思う。

長い歴史の中で、日本は繰り返し大きな津波に襲われてきた。しかし、日本にとって本当の意味で、危機感を伝承する教訓とはなっていなかったと思う。現代を襲った東日本大震災は、大津波の脅威をまざまざと見せつけた。以前はなかった映像や画像、写真は、教訓を将来に残し続ける。

尊い犠牲とともにあるその教訓を、決して忘れないことが私たちの使命である。

この記事を書いた人

松坂千尋(まつざか ちひろ)
1957年宮崎県延岡市生まれ。小学校から高校まで、宮崎市、日南市、東郷町(現日向市)在住。
2024年6月末から宮崎県立芸術劇場の理事長兼館長。

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